今回はタイトルの通り、建築家とは何なのか、どんなことをするべきなのか、自分なりに考えてみたいと思います。
私自身がまだまだ未熟な意匠設計者であるため、立ち位置による願望や思い込みも含まれているかもしれません。そのため、この考えが正しいとは口が裂けても言えません。しかし、一つの考え方として多くの方に届き、考える切っ掛けの一つになれば幸いです。
世間のイメージ
世間の皆様が建築家をどう思っているのかについて正確な統計を取って分析したわけではないので主観によるバイアスがかかっているとは思いますが、過去に見てきた意見の中には否定的な意見も多く、特に印象に残っているのは次のような意見です。
- 他人のお金を使って自己満足してる。
- 使い勝手やメンテナンス性は無視。
- コストと利益の計算ができていない。
- 現場の事情も知らずに机上の空論で話を進める。
少し荒っぽいかもしれませんが総括してしまうと、迷惑な人というイメージでしょうか。
もちろん全ての人にそう思われているとは私も思ってはいません。しかし、こうしたイメージを補強できてしまう実例が多いことも事実であると思います。なぜこのような状況になっているのでしょうか。
悪評の原因
少し検索しただけで建築家の設計による悪評は山のように出てきます。実際に具体的な建築物を挙げて、どのような欠陥があり、どうしてそうなってしまっているのか真剣に考察しているものもあれば、図面も写真も無く、素人の勝手な主観のみで文句をつけている意見もありました。
オリンピックの新国立競技場や、現在建設中である万博の各建物もそうだと思います。
しかし、いずれの問題も実際に利用者としての目線に立ってみると歓迎できないものであることは間違えようのない事実です。
皆さんの想像通り、こうした問題は意匠性を重視した建物で多く耳にします。では、設計者たちはこういった問題が起こりうることに気が付かなかったのでしょうか?
全てとは言えませんが、大半の設計者は弱点となるであろう点はある程度予想していると思われます。例として挙げると、将来確実に雨漏りが発生するとまではいかずとも、それに類する問題が、既存の工法や納まりよりは発生しやすい状態であるとは理解しているはずです。
弱点があることを理解していながら、施主を説得してまで建築に踏み切るのは、「そのデメリットを超えるだけのメリットが、その造形にはある」と信じているからです。しかし、いくら設計者がその建物のデザインを信じていても、それが世間に認められるとは限りません。そして施主や世間にデメリットを超えるメリットがあると証明できた建築や、これまでの常識を覆しながらも、認められた建築は名建築。出来なかった建築は、残念ながら迷建築と呼ばれるのでしょう。
有名建築家になれるような方々は、皆さん自らの設計の良さを信じています。スタディにスタディを重ねて考え抜いた彼らなりの答えです。長い時間をかけて考え抜いたからこそ、そのデザインを信じることが出来るのでしょう。そして、そのデザインを信じているからこそ現場でも造形に妥協することが出来ないのだと思われます。
同じ設計者として贔屓目に見ている点はあると思いますが、これが建築家に対する悪印象の根本的な原因ではないでしょうか。
建築家の社会貢献
では意匠性を重要視した建築物は悪なのでしょうか。私はそうは思いません。現存する世界最古の建築書であるウィトルウィウスの「建築書」には、建築は「強さ」「機能性」「美しさ」3つの要素が揃うことで初めて建築となる。と語られています。本当に良い建築とはすべての要素を満足させ、それらが相乗効果を生み出し、引き立てあうことが出来るものなのです。
先ほど述べたデメリットを超えるメリットを示すことが出来る建築も、本当の意味で名建築とは呼べないのかもしれません。
しかし、意匠、構造、設備や環境、施工性や整備性、そして経済性など、これらの要素全てを完璧に満たす建築は存在しないと私は思います。ある程度の両立は可能であるものの、すべての面を最高の状態にすることは実質不可能でしょう。特に近年ではこれまでは仕方ないと諦められていたことも、設備や新素材、新工法によって実現できることが増えています。しかし、それは同時に、それらの性能を実現するための縛りが増えている、妥協のラインが上がり続けているとも考えることが出来るかもしれません。もちろん基準が上がっていくことは素晴らしいことですが、どれかを突き詰めていけば必ずどこかが行き詰まります。建築家に真に求められていることは、これらのトータルバランスを最大化しつつ、土地の特色や施主の意向を読み取り、デザインするということなのでしょう。そしてその難易度は性能の基準が上がっていくにつれて加速度的に難しくなっていっていると思います。
そして、日本の建築家によるデザインは世界的にも高く評価されているということも、また一つの事実です。建築界のノーベル賞と呼ばれるプリツカー賞の受賞者は9人で、これは世界一の人数です。そして、いつ受賞してもおかしくない方々がまだまだたくさん居ます。現代の建築文化を牽引しているのは日本人建築家であると言っても過言ではないのかもしれません。
建築物としての機能を果たす以上のデザインは構造的な負担やライフサイクルコストの増加に繋がるため、不要であるという意見も理解することはできます。しかし、これまでも述べてきた通り、本当に良い建築とは意匠性も含めて総合的に検討していく必要があるのです。優れたデザインは多くの人々を惹きつけ、街のシンボルとなると同時に、経済活動の中心ともなります。
近年の建築の中で最も経済的に効果があった建物といえばフランクゲーリー・O・ゲーリーによる「グッゲンハイム・ビルバオ」でしょうか。スペインの北部、人口35万人ほどの地方都市であるビルバオに建てられたグッゲンハイム美術館の分館です。この美術館の開館後に、町への観光客数はなんと20倍に増加し、その経済効果は直接効果のみで、開館後3年間で5億~7億ユーロと言われています。
建築デザインの重要性は単純な一面のみでは語ることは出来ません。先に述べた通り、建築物はその大きさからモニュメント的な存在として町の象徴ともなり、歴史や文化を体現する存在となり得ます。それは土地に住む人々の誇りを与え、町全体への愛着につながります。
このように、一見すると余計なコストをかけているように見えることでも、それによって多くのメリットを生み出すこともあります。しかし、その効果は予想することは出来ても保証することは出来ないのです。失敗を容認するわけではありませんが、予想が正しいか確かめるためには実際に建てて確かめるしかないのです。
また、社会貢献という面に注目すると特に2014年にプリツカー賞の受賞を果たした坂茂は被災地などに積極的に足を運び、現地の方々のために、簡易的で誰にでも建てやすい「紙の建築」を提供していることでも有名です。彼は建築家の仕事が「権力者や富裕層に対しては大きな役割を果たしているものの、世の中の大多数である市民に対しては何も出来ていないのではないか」と疑問を感じていたそうです。彼に続いて市民のための建築家が増えていけば、建築家というものに対するイメージは変わっていくのかも知れません。
建築家とは、どうあるべきなのか
唐突ですが、私は「べき論」が嫌いです。主張自体が間違っているとは思いませんが、その表現が好きになれません。
「~~だから~~するべき」 「~~ならば~~するべき」
大抵の「べき論」は発言者が自分の私欲や固定観念を押し通すために公共の正義を利用しているだけのように見えてしまうのです。もちろんこの世全ての出来事が彼らのいう「べき論」の通りに進めば世の中はもっと円滑に回り、快適に過ごせるようになるのかもしれません。しかし、我々が人である限りそれはありません。それはどんな人も気が付いていると思います。つまり、「べき」という発言はどんな弱者でも出来る、社会に対する個人的な願望の現れなのだと思います。
そのため、私が建築家に望むこと。そして、私が一設計者としてこの先の人生で成し遂げたい個人的な想いを綴りたいと思います。
建築とはその大きさから、施主の人生のみならず、町全体に大きな影響を与える可能性を秘めています。そこに批判を含んだ多くの意見が集まることも当然でしょう。しかし、それらの意見を恐れて凡庸な建物だけが立ち並ぶ町は良い街なのでしょうか?どんな街にも人が暮らしてきた以上、固有の歴史があり、歴史があれば文化が生まれます。そして文化は街並みに現れます。街並みは人の営みの終着点の一つであり、一目でわかるものでなくとも、これまでの積み重ねがあるのです。どこからも批判が来ないようなテンプレート的で、凡庸なものだけで埋め尽くされた街並みに魅力はあるでしょうか。国内に数箇所程度であればそれもある種の魅力、文化になり得るかもしれません。しかし、すべての街並みがそうなれば、どこへ行こうと同じ景色の連続です。個人的な感想ですが、全く面白くありません。善い悪いではなく、面白くないと感じてしまうのです。
私はどんな土地にもその土地なりの良さがあると思います。その良さを最大限引き出し、街を飛び越え、国や世界に魅力を発信できる建築物を提案できる存在になりたいと思います。